▼事件発生
昭和38年5月1日、埼玉県狭山(さやま)市内の、川越高校 入間川分校の1年生である中田善枝さん(16)は、15時30分ごろ自転車に乗って学校を出た。この日は善枝さんの16歳の誕生日で、家族は赤飯を炊いて善枝さんの帰りを待っていた。
しかし18時を過ぎても善枝さんは帰ってこない。後の調査で、善枝さんがガード下で誰かと待ち合わせをしているようなところが目撃されているが、それを最後に行方不明となってしまった。
心配になった長男(25)が学校へ出向き、善枝さんのことを尋ねたが、生徒は全員下校しているとのことだった。
「行き違いで、もう帰っているかも知れない。」そう思った長男は、とりあえず家に帰ってみた。だが、善枝さんはまだ帰っていなかった。時間は19時30分になっていた。
心配ながらも家族で夕飯を食べながら善枝さんのことを相談しあっていたが、19時40分ごろ、長男が玄関のガラス戸に白い封筒がはさんであるのを見つけた。
19時30分に長男が帰宅した時にはこの封筒はなかったから、このわずか10分の間に差し込まれていたものと思われる。
手にとってみると、封筒には宛名のところに
少時様 中田江さく
「少時様」が取り消し線で「中田江さく」と書いてあった。「江さく」とは、善枝さんの父親である中田栄作のことであろう。
中を開けてみると、そこには善枝さんの生徒手帳と脅迫状が入っていた。
脅迫状には次のように書かれていたが、字の能力がないのかわざとか、漢字の使い方もメチャクチャで原文は極めて読みにくい。
これ以降、最初に原文、次に訳文、その下が画像である。
少時様 このかみにツツんでこい
子供の命がほ知かたら4月29日の夜12時に、
五月2日
金二十万円女の人がもツて前の門のところにいろ。
さのヤ
友だちが車出いくからその人にわたせ。
時が一分出もをくれたら子供の命がないとおもい。
刑札には名知たら小供は死。
もし車出でいツた友だちが時かんどおりぶじにか江て気名かツたら
子供わ西武園の池の中に死出いるからそこ江いツてみろ。
もし車出いツた友だちが時かんどおりぶじにかえツて気たら
子供わ1時かんごに車出ぶじにとどける、
くりか江す 刑札にはなすな。気んじょの人にもはなすな
子供死出死まう。
もし金をとりにいツて、ちがう人がいたら
そのままかえてきて、こどもわころしてヤる。
<訳文>
少時様は取り消し線。
少時様 = 宛名らしいが「しょうじ」が誰を指しているのか不明。この紙に包んでこい。
子供の命が欲しかったら5月2日の夜12時に、(4月29日に取り消し線で、その下に五月2日)
金20万円持って佐野屋の門のところにいろ。
「前」の文字が取り消し線で、その下に「さのヤ」。
さのヤ = この地域にある佐野屋酒店を指す。
友達が車で行くから、その人に渡せ。
時間が一分でも遅れたら子供の命はないと思え。
警察に話したら小供( = 子供)は死。
もし車で行った友達が時間通り無事に帰ってこなかったら
子供は西武園の池の中に死んでいるから、そこへ行ってみろ。
もし車で行った友達が時間通り無事に帰ってきたら
子供は1時間後に車で無事に届ける。
繰り返す。警察に話すな。近所の人にも話すな。
子供、死んでしまう。
もし金を取りに行って、違う人がいたら
そのまま帰ってきて、子供は殺してやる。
<実際の脅迫状>
警察には話すなと書かれてあったが、長男はすぐに隣の親戚に知らせ、そのまま警察にも届け出た。脅迫状を見つけてから、わずか15分後には警察に知らせるという素早い行動だった。
この時、庭の物置の前のいつもの場所に善枝さんの自転車が返されているのを父親が発見している。犯人が脅迫状と一緒に自転車も持って来たものと思われる。
▼犯人との取り引き
脅迫状によれば、5月2日の夜12時に佐野屋酒店の前に友達が金を受け取りに行くから、その男に金を渡せ、女が金を持って来い、となっている。
金を持っていく役目は善枝さんの姉である登美恵(23)が引き受けた。
善枝さんの家は母親はすでに死亡しており、父親の他は、男が3人兄弟、女が5人姉妹で、善枝さんは四女である。ただし姉妹のうち一人は死亡しており、一人は東京に住んでいたため、事件当時、実家に住んでいた善枝さんの兄弟は、男が3人、女は善枝さんを含めて3人である。登美恵は次女にあたる。
そして指定された5月2日。登美恵は長男に車で送ってもらって23時50分ごろ、指定された佐野屋酒店の前に立った。手には警察から用意してもらった偽造紙幣の20万円を持っていた。
まだ街灯もあまりないような時代であり、辺りは真っ暗である。佐野屋を中心に周りには40人もの警官が息をひそめて犯人の出現を待っていた。
「おい、来てんのか!」
と、犯人か、その友人かは分からないが、一人の男が暗闇の中から登美恵に声をかけた。男のいる位置は佐野屋の横の畑の中で、登美恵からは30メートルくらい離れている。
警官たちにも緊張が走る。
「はい、来てます。」と登美恵が答える。
「警察に話したんべ! そこに2人いるじゃねえか!」
「1人で来てますからこっちに来て下さいよ!」
登美恵と男との会話が数回繰り返された。だが、次の瞬間、男は周りの警官たちに気づいのか、猛ダッシュして全力で逃げ出した。
「逃がすな!」と警官たちが一斉に追う。しかし相手の脚の方が速かった。追跡もむなしく、警察はこのまま男をとり逃がしてしまった。
たまたま犯人の近くに配備されていた警官が年配の人が多くて誰も追いつけなかったというのも理由の一つであるが、実際に間近に現れた相手を、40人もの配備を敷いておきながら逃がしてしまったというのは大失態であり、警察は後に世間から痛烈な批判を浴びることとなった。
翌日5月3日、警察は畑に残っていた犯人の足跡を、警察犬を使って追跡した。しかし途中にある小さな川の辺りで、犬は臭いを見失ってしまい、この方面からの捜査はこれ以上は無理となってしまった。
この、臭いを見失った場所の近くには、「石田養豚場」という養豚場があった。警察では、この石田養豚場に出入りしている者が犯人ではないかと考え始めた。
▼遺体発見
その翌日5月4日10時30分ごろ、善枝さんの遺体が発見された。
雑木林に通じる農道に埋められていた。穴の深さは1メートル弱で、善枝さんはうつぶせで、両手を手ぬぐいで後ろ手に縛られ、目には手ぬぐいで目隠しがされてあった。
スカートがまくられ、下着はヒザまで降ろされており、生前に強姦されていた。身体についていた精液から、犯人の血液型はB型であることが判明した。
後の解剖で、善枝さんは処女ではなかったことが判明しており、その時は合意のもとで行ったと判断されている。
また、抵抗した時に出来る身体の傷はなく、ほとんど無抵抗であったと思われる。
死因は首を絞められたことによる窒息死だった。首に指の跡がなかったことから、手で直接絞めたのではなく、何か帯状のもので絞めたものだと推測された。
5月11日には、遺体発見現場から124メートルほど離れたところにスコップが落ちているのを農作業している人が見つけ、事件との関わりを考えて一応警察に知らせた。
調べてみると、これは石田養豚場から盗まれていたスコップであり、付着していた土を遺体発見現場の土と照合してみるとぴたりと合い、遺体を埋める際に使われたスコップだということが判明した。
石田養豚場の経営者やその家族は被差別部落の出身であり、警察は、この養豚場に出入りする部落出身者を最も疑わしいと考えて捜査を進めた。
この事件は、部落出身者を集中的に疑うという捜査が行われ、後に部落差別問題として世間から非難を浴びることとなった事件でもある。そういった考えは捜査の最初の段階からあったと言える。
▼犯人逮捕
事件から約3週間後の5月23日、ケンカと窃盗の罪で一人の男が逮捕された。男の名は石川一雄(24)で、被差別部落に住んでいる青年だった。血液型もB型で、事件の3ヶ月前まで石田養豚場に勤めていた。
石川とその家族が住んでいる被差別部落は遺体発見現場のすぐ近くであった。
逮捕の理由こそケンカと窃盗であったが、警察は石川を善枝さん誘拐殺人の犯人として完全に疑っており、追求されるのはその件ばかりだった。
そして逮捕されたこの同じ日、石川の家には12人の刑事が訪れ、大々的な家宅捜査を行った。部屋の中はもちろん、天井裏や屋根の上まで調べ上げ、庭の土も掘り返すという徹底したものだった。
しかし石川の家からは事件の手がかりとなるようなものは何も発見されず、また、石川本人も善枝さん誘拐については頑として否定していた。
6月17日、ケンカと窃盗に対する拘留期間が終了したため、石川は釈放されたが、釈放と同時に今度は殺人容疑で逮捕され、石川は再び拘留されることとなった。
翌日6月18日には石川宅の2回目の家宅捜査が行われた。刑事14人が2時間かけて家を調べたが、この日も何も有力な証拠は見つからなかった。
一方、再び逮捕された石川は、これまでかたくなに誘拐殺人を否定し続けてきたが、連日の厳しい取り調べに疲れ果てており、「自供すれば10年で出してやる。」と、刑事から取り引きのようなことを言われ、石川はついに自供を始めた。
石川は、善枝さんのカバンを捨てた場所の地図を描いた。そしてその地図に描かれた場所からカバンが発見された。
また、善枝さんの万年筆を盗み、自宅の勝手口の鴨居(かもい)の上に隠したという自供に基づいて6月26日、3回目の家宅捜査を行ったところ、鴨居の上から万年筆が発見された。
更に善枝さんの腕時計を捨てたと自供した場所を捜索してみると腕時計が発見された。
犯人が描いた地図と自供により、被害者の遺留品が発見された。これは犯人しか知り得ない情報であり、石川が犯人であることはほぼ確定的とされた。
▼矛盾だらけの証拠品
最初に発表された情報によれば、これだけ証拠が揃えば石川が犯人であることは確実である。しかし後の調査や、石川の裁判中の供述によって、これら証拠の品々や捜査にはかなりの矛盾点があったことが判明している。
まず、石川が描いた、カバンを捨てた場所の地図である。これは最初に警察官が紙を2枚重ねて地図を描き、下の紙を石川に渡し、石川はその紙に残っている跡をなぞって同じものを描いただけだと判明している。
確かに石川が描いたことには違いないが、これは本人の意思で描いたものとはとても言えない。
また、発見されたカバンは革製のカバンであったが、善枝さんの父親の証言によると善枝さんの持っていたカバンは革製に見える旅行カバンであり、このカバンは善枝さんのものではないことが分かった。
万年筆は自供によって勝手口の鴨居の上から発見されているが、それまでに2回に渡り、延べ26人で4時間以上の大掛かりな家宅捜査が行われているにも関わらず、発見されていなかった。
それが自供後の3回目の家宅捜査ではすぐに見つかり、なおかつ、鴨居の上に万年筆を置いてみると、それはただ立っているだけでもよく見える状態だったという。自供後にそういう状態の万年筆が見つかるのは極めて不自然である。
更にこの万年筆は鑑定の結果、ペン先がほとんど擦り減っていない新品同様のものであり、インクはブルーブラックだった。善枝さんのノートや日記に使われているインクはライトブルーであり、この万年筆も善枝さんのものではないことが分かった。
腕時計も、発見された物はシチズン・ペットであったが、善枝さんの腕時計はシチズン・コニーであり、これも善枝さんのものではなかった。
金の受け渡しの時に犯人が潜(ひそ)んでいた畑から地下足袋の足跡が採取されているが、その大きさは10文から10文半で、石川の自宅から押収された地下足袋の大きさは9文7分だった。
脅迫状との筆跡鑑定のために、石川に文書を書かせてみた。石川はほとんど字の知識がない。それでも書かせた文書と脅迫状を比べて筆跡、句読点の使い方、文章の特徴などを鑑定してみた結果、警察では同一人物と鑑定されたが、学習院大学の教授と京都市教育委員会では、別人であるという鑑定結果となった。
そして脅迫状や善枝さんの遺留品からは石川の指紋は検出されていない。
真犯人は別にいるとしか思えないような事実が次々と明らかになっていった。
「本当に石川なのか?」
事件を追っていたジャーナリストや著名人、部落解放同盟などが次々と声を上げ始めた。多くの支援者が集まり始め、石川の無罪判決を勝ち取る動きが始まった。
▼6人もの人間が変死と自殺
この事件は、事件発生後、被害者・善枝さんと少なからず関わりを持っていた人物が6人も自殺や変死を遂げており、その点が大きな謎となっている。
果たしてその中に真犯人がいたのか、あるいは共犯者が責任を感じて死を選んだのか、または、知ってはならないことを知ってしまったために自殺に走ったのか、多くの書籍により推理はされているが、明確な結論は出ていない。
<1人目>
善枝さんの遺体が発見されてから2日後にあたる5月6日、運送会社勤務の奥富玄ニ(31)が、農薬を飲んで井戸に飛び込み、自殺した。奥富は新居を建てたばかりで、明日が自分の結婚式であった。
奥富は善枝さんの実家である中田家に住み込みで働いていた時期もあり、善枝さんとも面識がある。血液型はB型。字は脅迫状の筆跡と良く似ていたという。
<2人目>
不審な3人組を見たと警察に通報した、情報提供者である田中登(31)が、5月11日、包丁で自分の胸を刺して自殺した。
「警察に協力したのに犯人扱いされた。」と悩んでノイローゼ気味になっていたらしい。
<3人目>
7月14日、中田登美恵(24)が農薬を飲んで自殺。登美恵は善枝さんの姉であり、誘拐事件の時、金の受け渡し役を務めた女性である。石川の死刑判決に相当なショックを受け、その時から精神に異常をきたし始めたと言われている。
<4人目>
昭和41年10月24日、事件から3年5ヶ月が経過していたがこの日、石田養豚場の経営者・石田一義の兄である登利造が、西武線入曽駅近くの踏み切りで電車に轢(ひ)かれて死亡した。
登利造は事件当時は弟の経営する石田養豚場に勤務していた。警察では自殺と断定。
<5人目>
昭和52年10月4日、中田家の次男・喜代治が首を吊って自殺。自分の経営する中華料理店の経営不振が原因とされている。被害者・善枝さんの兄弟は、これで2人自殺したことになる。
この年の8月に石川の無期懲役が確定し、石川は9月に刑務所に入っている。
<6人目>
昭和52年12月19日、この狭山事件について事件を再調査していたジャーナリスト片桐軍三(36)が、東京都豊島区の路地で何者かに襲われ、激しい暴行を受けた。頭骸骨の陥没や骨折、肋骨の骨折などの重症を負い、二日後である21日に死亡した。
▼判決
昭和39年3月11日、浦和地裁で行われた裁判では、石川は死刑判決となった。翌日石川は控訴した。
石川は一審までは犯行を認めており、否認もしていなかったが、9月10日に東京高等裁判所で行われた控訴審では、強引な取り調べや「自白すれば10年で出してやる」と持ちかけられたこと、自白を強要されたことなどを話し、一審で認めたことを一転して全面否定した。
昭和49年10月31日、東京高等裁判所で無期懲役の判決が出され、上告するも、昭和52年8月9日には最高裁で上告が棄却され、石川の無期懲役が確定した。石川は千葉刑務所に服役することとなった。
そして31年7ヶ月の時を経て、平成6年12月21日に石川はようやく仮出獄することが出来た。石川は出獄後も支援者と共に無罪を主張し続けている。
▼真犯人を推理
この事件は、裁判上では石川一雄が犯人として判決も出ており、決着がついている。しかし捜査も証拠もあまりにも不自然な点が多く、石川の無実はほぼ間違いない。
この狭山事件をモデルにいくつかの作品も作られ、書籍も多く発行されている。その中には真犯人を推理したものも多いが、あくまでも推理の段階であって真犯人が判明したというわけではない。
その中にあって、元朝日新聞の記者・殿岡駿星(とのおか しゅんせい)氏が、著書「犯人 狭山事件より」(1990年出版)と「狭山事件の真犯人」(2005年出版)の中で述べている、
「真犯人は善枝さんの家族の中の一人、それも男兄弟の中の一人」という説は大胆かつ有力な説となっている。ただし、これは特定の1人を犯人として断定しているものではない。
この説の根幹を成すものは、中田家の見取り図から判断される事柄と、事件当日の家族の行動の不自然な点である。
中田家の見取り図は1988年、部落解放同盟が発行した「無実の獄25年 狭山事件写真集」の中に掲載されており、それを参考文献としている。
<中田家の見取り図>
中田家の玄関はガラス戸で、戸を開けなくても家の中から外の気配が見えるようになっている。
自転車が戻されていた物置と家との距離は約20メートルあるが、自転車のあった位置は家の中にいても見える場所である。
なおかつ、誰かが敷地内に入って封筒を玄関の戸に挟(はさ)もうとすれば、それもガラス越しに見えてしまう。
ましてや、この日は帰りの遅い善枝さんを心配して家族全員が玄関の方を気にかけていたであろうし、このような状況で部外者が誰にも見られず自転車を戻し、玄関に封筒を挟(はさ)んで帰るようなことは不可能に近い。
それが出来るのは、中田家にいても不自然ではない人物、つまり家族の中の誰か、と考えるのが理にかなっている。
そして、脅迫状には「警察に話したら子供は殺す」と書かれてあるにも関わらず、脅迫状を読んでから15分後には警察に届けている。普通であればまず家族全員で話しあってから警察に届けるかどうかを決めそうなものであるが、あまりにも判断が速い。
また、ここで重要になってくるのが、脅迫状に指定された時間「5月2日の夜12時」である。これは「5月1日の24時」とも「5月2日の24時」とも取れるあいまいな表現である。
二通りの意味に解釈した警察は実際に二晩続けて張り込んでいる。実際に犯人が登場したのは「5月2日の24時」であった。
犯人の目的として、あえてどちらとも取れる日付を書き、二晩連続で警察を張り込ませる。初日は警官の人数や配置を確認するための練習のようなもので、本番は二日目である。
脅迫状が発見されたのは5月1日の19時40分であり、この日の24時までに警察側に張り込みの準備をさせるためには、どうしても急がなければならない。
そして1日の24時、犯人はこっそり現場に現れて警官の配置などを把握し、明日、自分が登場する位置や逃走経路を確認して帰る。
つまり、脅迫状が届いた当日から警察に張り込みをさせるために急いで警察に届けたのではないかと推測されている。
金の受け渡しに女を指定しているのも、自分自身(男性)が金の受け渡し役に任命されるのを防ぐためである。
そして後に、金の受け渡し役を務めた、善枝さんの姉・登美恵が自殺したのは、自分の兄弟が真犯人と知っており、石川の死刑判決に対するショックと懺悔(ざんげ)の気持ちからだったのではないか。
殺害の動機としては、犯人と善枝さんは、兄弟の関係というよりも男と女の関係になっており、それが発覚しそうになったからだと推測されている。
殿岡氏は平成2年にこの該当人物に、この事件の核心に迫る8つの質問を書面にして送ったが、「お答えすることは出来ません。」との返事が返ってきており、依然この説は仮説の段階のままである。